趣味ブログ

思ったことを書くだけのブログ。趣味がメイン

物の本質について 世界の捉え方

現代の科学的常識、知識がない過去の人々は世界をどのように見て、どのように解釈したのか?私は個人的に、その世界の観察の仕方と、それを基にした論理の立て方には幼い頃からとても興味があった。

現代を生きる我々と、過去を生きた人々の違いは「情報」の差だけだ。思考は、基礎知識等の「情報」を基に、「論理」を組み立てていく。我々は現代社会の優れた精度を持つ計測器や、それにより得られた先人の理論を「情報」に、「論理」を積み重ねていき、世界を捉えていく(もはや世界は十分解き明かされ、「情報」だけで世界を捉えられるようになっている気もする)。一方で、過去の人々は己の眼で世界を観察し、その「情報」に「論理」を積み重ねていった。何が言いたいかというと、「論理」の部分は現代も過去も同じステージなんだと、私は思う。

「物の本質について」は紀元前に哲学者ルクレーティウスさんが書いた本であり、彼が世界を観察し、その上で論理を積み重ね、世界の捉え方の一つ示したものである。そしてこの洞察は、結構現代の世界の捉え方に近い。もしも自分が紀元前に生まれ、現代の「情報」を持っていなかったら、ルクレーティウスさんのように世界を捉えることができただろうか。もしもルクレーティウスさんが現代を生き、現代の「情報」を基に、本書を執筆するほどの洞察力と思考力を働かせて「論理」を重ねた場合、どのように世界を捉えるだろうか。興味が尽きない。

後者を試す方法が一つある。誰か(私でもよい)が本書からルクレーティウスさんの「論理」の重ね方を習得することである。そうすれば現代の「知識」を基に、ルクレーティウスさんの「論理」を使って、新たな世界の捉え方ができるだろう。その世界の捉え方が正しいのか、間違っているのか、現代最新の捉え方に即しているのか、いないのか、にはあまり興味がない。ただ、「情報」とはスタート地点、「論理」がドライバーとしたとき、紀元前の「スタート地点」から現代の世界の捉え方の近くまでたどり着かせた「ドライバー」は、現代を「スタート地点」とした場合には、どこへ連れて行ってくれるのか。それが興味が尽きない。そこは新天地どころか、何もない荒野かもしれないし、過去に十分に議論しつくされた荒地かもしれない。

 という訳でこれから「物の本質について」を読んでいき、ノート代わりに内容を本ブログに書いていきたいと思う。これはほぼ100%自分のためだ。めんどくさいから本書からの引用とかはしないつもりだ。自分が読んだ結果から来る、ルクレーティウスさんの考え方を簡単にまとめながら更新していくつもりだ。もちろん間違った解釈が入る理由もあるので注意してほしい。本当に「物の本質について」の詳細が知りたい人は、本を手に取ってほしい。最後は現代知識を基に「ルクレーティウスさんならどう考えたか?」を考えて世界を捉えなおしてみたい。

なお、納期は決めていない。